ばりじんNo.57。まごころ弁当 今治店・越智一郎さん。
お客さんからのありがとうを聞きたくて。
ばりじん57人目のご紹介は、まごころ弁当 今治店 店長の越智一郎さんです。
県外出身の越智さんが、どのようにして今治にやってきて、さらには高齢者向けの宅配弁当を事業としてやるに至ったのか。
そのヒストリーや今の心境、これからのことなどなど。隅々まで語っていただきました。
ぜひ最後までご覧ください。
きっかけは大震災。実家の酒屋も大惨事に。
ーー出身はどちらですか。
大阪の豊中市というところの出身です。
ーーそうなんですね。越智という性なので、今治出身かと。
結婚して今治にくると決めた時に越智の性になりました。
ーー大阪には何歳まで過ごしたんですか。
高校卒業までです。ちょうど高校卒業して希望の大学に行けなくて、どうしようって思ってたときに、阪神淡路大震災が起きたんです。大阪の実家が酒屋なんですけど、酒の瓶とかもほとんど割れてめちゃくちゃな状態でした。
でも、何かできないかということで、神戸で半年くらい住み込みでボランティアしてました。
ーーすごい行動力ですね。
その当時はみんな行動してたと思いますよ。ぼくは小さい頃からボーイスカウトをやっていて、ボランティアみたいなものってわりと身近にあって、得意分野だったんですよね。
テント生活とか、小さな子どもたちと遊んだりというのはやってて楽しかったですね。
ーー震災で人生観が変わったみたいな分岐点だったんですか。
ん〜。ぼくにとってはそれほど大げさなものではなかったですね。もちろんきっかけの一つだったとは思うんですけど、特別”人生観が変わった”みたいなことはなかったと思います。
ーーそこからどうされたんですか。
大学に行こうとは思っていたんですけど、知り合いのコンビニを経営されている社長さんから声かけてもらって、コンビニの雇われ店長をすることになりました。
実は実家も酒屋で、その後コンビニに業態変更することになったんですけど、そこではないところに就職しましたね。
ーーなぜ実家に戻ろうとしなかったんですか。
もちろん親の職業は尊敬していましたけど、一緒に働くのは無理だな〜と思ってたんですよ。笑
独立、Web業界での活躍へ。
ーーそこからコンビニにはどのくらいいらっしゃったんですか。
だいたい3年くらいですね。
ーーなぜ辞める決断を。
実はその当時のコンビニのオーナーさんがもうかなりのお金持ちだったんですよ。もう本当にすごい人でした。それもあって、全然ついていけなかったんですよね。それで自分のやりたいこともここにいちゃできないなということになって。
ーーそこからどういった職場に。
その次は、携帯電話のショップの営業マンになりました。実力勝負をしたいと思っていたので、競い合える環境にいきたいなということで選びました。そこにだいたい10年くらいいました。
ーーそのまま京都で働いていたんですか?
いろんなとこ行きましたよ。京都、大阪、広島、山口、岡山、東京という感じで転々としてました。
ーー新しい環境でのチャレンジはいかがでしたか。
確かに実力勝負という点では、すごく数字で評価されることになりましたし、そこそこ給料もいただけていたので、それだけをみるといいかもしれないんですけど、正直楽しくはなかったんですよね。
しっかりとしたお金をもらえたから納得していたというだけでしたね。
ーーそれはなぜですか。
良いものを売り続けるというより、当時の営業は在庫をいかに片付けるかだったり、上から言われたものを売ることが大事だったりと、すごく葛藤の中で仕事をしていました。このままでいいのかと。
単純にお客さんからのありがとうをもらえていなかったと思うんです。実家の酒屋さん時代の親を見ていたので、直接”ありがとう”と言われている姿を目の当たりにしていたので、その体験がなく悶々としていました。
ーーそこから会社を辞めることに。
そうですね。30歳くらいのときに、新しく会社を作っていた知り合いに一緒にやらないかと誘われて、その会社に入社しました。
ネットメール全盛期の時で、そういった分野でアフィリエイトだったりSEOの仕事だったりする会社でした。
ーーすごい。時代の最先端にいったわけですね。
まあそういう時代でしたね。かなり会社は儲かっていましたね。ぼく自身もある程度のポストにいたこともあり、お金はかなりあったと思います。
ーーそこからどう今治につながるんですか。
ここからもう少し続きがあって。33歳の時、その会社もやめて、同じような業態で自分も独立しました。ただ独立してからはリーマンショックがあったりで右肩下がりで仕事が少しずつ減っていくことになりました。
仕事が暇になっていくタイミングで、当時奥さんと話していて、何か資格をとろうかという話になったんです。
それでホームヘルパー2級の資格をとったんですよね。
ーーかなり話が飛びますね。
そうですか?笑 携帯会社のときに思っていた「お客さんから直接ありがとうと行ってもらえる仕事」に憧れというか就きたい気持ちが強かったんですよね。
そんな時に「まごころ弁当」というシステムにたどり着くんです。
ーーようやくきました。
そうなると、当時の選択肢として、ぼくの実家の大阪、妻の実家の今治、その時に住んでいた京都と三つの選択肢があった中で、これから宅配弁当のようなシステムが必要になるのは地方だろうということと、妻の家族が来てくれると喜んでくれたというのもありますし、アウトドア好きなのもあって、今治でやろうということになったんです。
ーーなるほど。かなり早い段階で地域の高齢化ということに目をつけていたんですね。
もちろんメディアなどで言われていたのでそんなに先見性があったかどうかはわかりませんが、当時今治というかこの地域になかった宅配弁当という分野で勝負することにしました。
まごころ弁当でお客さんからの"ありがとう"をいただく生活
ーーまごころ弁当はFC(フランチャイズ)での起業だったんですよね。
そうです。当時四国にはまだなくて、高齢者向けの宅配弁当という分野もまだなかったかと思います。フランチャイズという形態でしたけど、あんまり地方での実績もなかったので、ルールもゆるやかでした。
「介護の現場を食でサポート!オーダーお届け弁当のまごころ弁当。」
ーーやはりはじめは苦労したんですか。
苦労といっても、嬉しい悲鳴の方です。売上的にははじめからすごくありがたいことに多くの注文をいただいて、勢いがすごくて生産が追いつかない状態でした。
ーー売れなくて苦労したという苦労話じゃないんですね。
そうなりますね。逆にずっと忙しすぎて、二年間休みなしでした。朝だいたい4時くらいに起きて、閉店の夜までの生活がずっと続きましたね。
ーーそこから少しずつ人が集まってきたんですか。
そうです。3年目くらいからようやく人も集まってきてくれるようになり、そんなに自分だけが働き詰めということではなくなりました。
初めて配達スタッフが一人で行って帰ってきてくれた時とかは本当に嬉しすぎて感動しちゃいましたね。
ーーそこからもうずっと売上は上がりっぱなしですか。
もちろん幅はありますけど、そういうことになりますね。これからも増えると思っています。
ーー辛いなと感じることはありますか。
もちろん体がしんどいというのはありますけど、ここ数年はめちゃくちゃ充実してます。かつての自分の仕事が、どうしてもお客さんから本当のありがとうをもらってない気がしてたこともあるので。
今は本当に多くの方から手紙や電話でも「ありがとう」をいただけているので、本当にお客様の幸せの上に自分の幸せがあるんだなというのを実感しています。
ーーこれからエリア拡大なども視野に。
それは考えていないですね。実際今の今治・西条エリアでもまだまだ知ってもらえていないこともありますし。介護関係者にはかなり知っていただいているとは思いますが、知名度はまだまだだと思っています。
ーー悩みなんかはないんですか。
ん〜。強いて言うなら、後継者というか次の世代の育成というのはしばらくかけて考えなきゃいけないなとは思っていますね。
あとはお客さんの満足度を下げることのないように、丁寧な配達やサービスを提供することですね。当たり前のことなんですけど。
ーー大阪のような都会から今治に来られて、よかったと思いますか。
あの決断はすごくよかったと思っています。
ぼくアウトドアが好きなんですよ。登山とか、スキーとか、釣りとか。そういう自然相手のことが好きだったこともあって、それが今治を選ぶ理由にもなっていたので、今が本当に充実していますね。今は海でSUPをしながら釣りをするのにハマっています。
今治に来るまでには、ばりばりの営業マン、ITマンという印象の経歴を持つ越智さんが行き着いたのは、高齢者向けの宅配サービス。
地元から遠く離れ、今治という地で新たに勝負をしたその姿勢と戦略が、まごころ弁当を躍進させ、今なおお客さんが増え続けている要因なんだと思います。
柔らかく話し、今の充実感がまさに伝わってくるお話でした。
ぜひ最後には動画も貼り付けていますので、どんなお仕事の様子なのかもまたご覧いただければ、より理解が深まるんじゃないかと思います。
まごころ弁当 今治店
越智一郎